近代日本の朝鮮侵略について、過去の事例として豊臣秀吉の朝鮮出兵が引き合いに出される。
そして秀吉の人物像が、実は意外なほどスーパーマンだったことから、秀吉の真の出自、そして秀吉の朝鮮出兵の動機が推測できる。
そこには更に、日本の皇室を巡る「北朝・南朝」の問題が関わる。
現代の歴史教科書が教えるところによれば、以下のようになる。
秀吉は貧農の家の出身で、放浪していたところを蜂須賀小六に拾われたのをきっかけに、織田信長の足軽になる。
それ以来出世を重ね、本能寺の変直前には毛利討伐の総大将を務め、その直後の明智光秀への電撃作戦を経て信長麾下の武将たちの頂点に立つ。
続いて徳川家康を抑え、さらに北条氏を征伐して天下を統一、朝廷より関白の地位に任ぜられた後に、李氏朝鮮や明を手中に収めようと出兵したものの、その途中で絶命。
豊臣氏はその後、徳川家康に天下を奪われて滅亡した。
足軽から侍大将、総大将そして天下人へと上り詰め、その過程で大掛かりな兵糧攻めを得意とした秀吉は、おそらく以下の能力に長けていた。
●身体能力や武具の扱いといった戦闘能力
●状況判断力に裏打ちされた戦術眼や戦略眼
●情報収集能力と判断力
●経済や政治に関する手腕
●戦争を投資と考える冷徹なビジネス眼
●人垂らしと呼ばれる人身掌握術
●環境適応能力や諜報能力
●文化人として高い教養を身につけた吸収力
秀吉は自らの環境適応能力や諜報能力で、放浪の貧農を装って蜂須賀小六や織田信長の家臣団に紛れ込んだ。
また戦争を投資と考える冷徹なビジネス眼は、播磨三木城や鳥取城への兵糧攻め、そして高松城への水攻めで発揮された。
特にこれら軍事での資金規模を考えると、秀吉には信長以外の「第二のスポンサー」がいて、それが秀吉の出自や朝鮮出兵の動機にも関わっていた可能性がある。
結論から言えば、秀吉は南朝天皇配下の乱破(間者、忍者、スパイ)だったのではないか?
秀吉の戦国武将としての傑出した能力の数々は、特殊な環境で幼少期から鍛え上げられていたのではないか?
秀吉は男性不妊だったという歴史考証があるが、とすれば豊臣秀頼の本当の父親は南朝天皇に連なる人物で、故に家康は秀頼を恐れたのではないか?
その後、徳川時代に逼塞していた豊臣秀頼の子孫が、明治維新を経て復活し、朝鮮侵略に至った経緯は以下と推測できる。
●島原の乱の天草四郎は、自らが秀頼の子孫だと匂わせていた節があった。
●水戸光圀(テレビと違い実は暴君で、思想的には異端者)が、『大日本史』で南朝正統論を唱えたことが、明治維新に影響を与えたとされる。
●明治政府は李氏朝鮮侵略を挙行、そして明治天皇は自ら南朝正統論を唱えた。
明治天皇にはすり替わり疑惑があるが、すり替わった大室寅之助は、フィリピンに亡命した天草四郎時貞の子孫、つまり南朝天皇の血を受けた豊臣秀頼の子孫ではなかったか?
こう考えると秀吉は当初、武家の中に紛れ込んで都合の良い体制を作り上げ、南朝天皇に明け渡すために動いていたのではないか?
つまりは秀吉の朝鮮出兵は、元々は南朝天皇の主旨であったことから、徳川時代には抑え込まれ、明治政府に再評価されたのではないか?
つまり秀吉の出自は、見過ごされがちだが極めて高い能力を秀吉にもたらすと同時に、近代日本の朝鮮侵略にまで影響を及ぼすことになった可能性がある。
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