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2014年11月14日 (金)

陰謀史観で振り返る、日本の朝鮮侵略 066

 私が今回、この検証をしていて、不可思議に感じたのは、私自身で「南朝系藤原氏」の嫌疑を指摘するに辺り、何故そんな時になって天智・鎌足だったのか、という疑念であり、そしてそれが理解できないからこそ、殆どの方は世界陰謀を妄想めいたものと考えるでしょう。

 特に明治維新の場合、大名の中でも薩長土肥という、南朝というよりはむしろ、豊臣方の大名が、南朝正当論を主張する明治政府の中核となりました。

 一方で、実際の南北朝の乱では、後に徳川家の重臣となる井伊家など多くの大名が、南朝方で参戦しながら、北朝朝廷との関係を重視する徳川方につき、太平の時代維持に貢献しました。

 ですので、南朝方の大名と言っても、織豊政権や明治維新時に、積極的に南朝系藤原氏の陰謀に荷担したのは、ごく一部だったと考えられ、大半は北朝系藤原氏と同様に、出し抜かれ置いて行かれたようでした。

 逆に、応仁の乱を誘発した日野氏や、八代将軍徳川吉宗に圧力を掛け、薩摩藩への重圧を止めさせた藤原氏などは、結果的に北朝朝廷の守護者を攻撃しており、むしろ隠れ南朝派と見なした方が良いかもしれません。

 また、それより時を遡れば、孝謙天皇に背いた藤原仲麻呂(恵美押勝)は、新羅への宣戦布告を唱えながら、その過激さが他の藤原氏にさえも嫌われ、反逆罪を受けて朝廷軍と交戦し、戦死しましたが、彼の論調はむしろ、後の豊臣秀吉や、明治政府に近いと言えるでしょう。

 つまり、一口に藤原氏や北朝・南朝と言っても、内紛や裏切りも多く(それすら猿芝居、という危険性も残りますが)、出し抜く者と出し抜かれる者が、その内部ですら交錯しているようにも見えます。

 特に、恵美押勝と、彼を退けて道鏡(物部の末裔)に譲位しようとした孝謙天皇の、双方を退けた藤原氏が、天智の系統である桓武天皇を据えた以降は、国内での非藤原系豪族や庶民への専横を強化する一方で、外交には殆ど無頓着でした。

 ですので、新羅への復讐という、豊臣秀吉や明治政府を操った命題は、数百年の間、藤原氏の中でさえ、忘れられていたようです。

 となると、李氏朝鮮を新羅に見立てて復讐を遂げようという、新南朝派の熱意が高まった契機は、

 1.南北朝の乱で勝者となった北朝が、旧非藤原系豪族の

   流れを汲む独立系武装勢力(後の大名)の意見を取り

   入れた為、南朝の残党が結束を固めるための対立軸と

   して、天智・鎌足の敵討ちを唱えた。

 2.織豊政権時の海外交流により、南朝系藤原氏が宗家で

   ある世界陰謀高家との連絡を回復し、かつての百済を

   再興する野心が高まった。

 この2点が中心だった、と考えられます。

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