歴史

2016年1月 1日 (金)

陰謀史観で振り返る、日本の朝鮮侵略 075

 皆様新年明けましておめでとうございます。

 このブログでの主旨として、私が掲げているのは、「誰もが生きられる世界」到来を阻んでいる勢力を糾弾することにあります。
 そして私がテーマの一つとして、「日本の朝鮮侵略」を挙げているのは、そこに闇勢力が世界をマインドコントロールするパターンが集約されている可能性が高いからです。
 そしてもう一つ、これは日本人という民族に対する過大評価にもなりかねませんが、世界陰謀を操る闇組織のやり口をたどると、どうも日本が連中の最終ターゲットだった可能性が浮上します。
 その一つの根拠は、欧米列強諸国を使ったアジア植民地統治が、武力制圧とキリスト教、そしてユダヤ人の財力を背景とした、露骨なものだったことです。
 それに対し日本を支配するに当たっては、下級武士や農工商の食いっぱぐれた子弟、更にはそれより不遇な階級の人たちを扇動した武装テロ、通称「明治維新」を契機に、近代日本を李氏朝鮮を始めとするアジア諸国への過剰な軍事介入、そしてアメリカへの開戦へと、まるで自らの意思であるかのごとく操るという、回りくどい手法を使っています。
 そしてこの回りくどさにこもった怨念こそ、現在に至る中東テロや国際経済の不安定さ、といった世界陰謀のシナリオが潜む温床であり、その目的は「誰もが生きられる世界」到来を阻むことであると、私は危惧しています。

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2015年8月20日 (木)

陰謀史観で振り返る、日本の朝鮮侵略 074

 先日振り返ったように、島原の乱には明らかに、反徳川幕府を明確に打ち出した、テロ戦争という側面がありました。

 元凶とされた松浦家と寺沢家は、反乱軍鎮圧後とはいえ、処罰により改易されたので、実質的敗戦と言えるでしょう。
 そして九州の殆ど全ての有力大名たちが、幕府軍として参戦していながら攻めあぐねたというのは、単なる一揆を超えて、明らかに強過ぎです。
 そしてここで気になるのは、当然の如く反乱軍に参戦した浪人たち、つまり旧豊臣家臣の大名が、実は日本の庶民を顧みない残虐な覇権主義者だった、という事実です。
 特に最悪だったと、ポルトガルやバチカンの公式記録にも書かれていたのが、キリシタン大名の代表格、高山右近でした。
 豊臣秀吉が高山右近を改易し、国外追放した理由は、50万人とも言われる日本女性達を、女性一人につき火薬一樽という交換レートで、海外に人身売買し、戦力を蓄積していたからでした。
 そしてこのときの武力や資金が、石田三成や小西行長ら、関ヶ原西軍の戦力となったと考えられることから、島原の乱でも使用された可能性は高いでしょう。
 そして島原の乱でも、反乱軍への参戦を強要された農民もいましたし、市内では略奪を受けた商家もありました。
 つまりキリスト教的とか、農民解放といったモラルは、ある程度無視されたテロ戦争だった、と考える方が自然です。
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2015年8月19日 (水)

陰謀史観で振り返る、日本の朝鮮侵略 073

 先日は、明治維新そして朝鮮侵略を唱えた「維新の志士」達が、その実侍の中でも少数派で、毛利家に滅ぼされた、大内家の旧家臣団を中心とする浪人ネットワーク出身だった可能性があり、そしてその活動が実は、島原の乱にも影響していた点に着目しました。

 ここで、島原の乱を一度振り返ってみましょう。

 ★島原の乱【リンク】

 島原の乱は、松浦家と寺沢家による過酷な年貢が引き起こした百姓一揆である、あるいは潜伏していたキリシタンの反乱、と正史では永年見なされてきましたが、実際には旧豊臣系大名配下だった浪人達が主導していたようです。

 そしてこの中には書かれていなかったものの、大内家との地盤とも近い地域でもあることから、反徳川色の強い外様大名の家来として潜伏していた、旧大内家家臣達が、直接姿を現さない様に、他の浪人達をまとめていた可能性もあります。

 また当然、島原の乱から生還した浪人達を、外様大名への再仕官を斡旋、または影で生活費を援助するなど、旧大内家浪人達が、そのネットワークを駆使して浪人達を助け、後に明治維新で彼らに味方する下級武士達を増やしていったことも考えられます。

 更に言えばこの一揆勢は、単なる烏合の衆の反乱や、破れかぶれの暴動と見なすには、余りにも強すぎました。

 松浦家と寺沢家は、圧政で大規模一揆を招いたのみならず、鎮圧にも失敗した罰により断絶し、更に九州の有力大名が参戦するも鎮圧仕切れず、遂には幕府軍の切り札、松平伊豆守の参戦によって鎮圧されました。

 結局破れたとはいえ、貧しい浪人や百姓達が、幕府軍相手にここまで善戦できたのは、果たして士気が高かっただけでしょうか?

 浪人の参戦から考えられるのは、彼らが藩から奪った武器弾薬のみならず、関ヶ原の遺物となっていた軍資金や、使い損ねた火薬や武器を、島原の乱に持ち込んだからではないでしょうか。

 そして勿論、表向きは幕府軍だった島津家も、天草四郎がフィリピン日本人街に亡命したという伝承があり、島津家がフィリピンとの密貿易で明治維新の軍資金を稼いでいたことから、影で一揆軍を支援していた可能性もあります。

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2015年8月18日 (火)

陰謀史観で振り返る、日本の朝鮮侵略 072

 先日は、明治維新そして朝鮮侵略を唱えた「維新の志士」と呼ばれる下級武士達の活躍が、彼らが藩内でもむしろ少数派だったという事実を振り返り、不審に思えると言及しました。

 すると後の薩長土肥という、一見すると地理的に離れた下級武士達の活躍の背後には、秘密結社めいたネットワークがあっても、決しておかしくはない背景が見えてきます。

 というのも、毛利家台頭以前の有力大名で、こうした地域に影響力を持ち得て、しかも朝鮮半島の旧王家である百済の末裔を名乗っていた、大内家の意思が見えてくるのです。

 最近のメディアでも指摘されていますが、長州藩の下級武士と称される維新の志士たちは、毛利家主体の長州藩内では、むしろ少数派だったにもかかわらず、欧米からの出資を得て藩内を自分たち派に仕立て上げ、倒幕を成し遂げましたが、彼らの殆ど全てが、大内家の旧家臣の家出身だったのです。

 そう見れば、大内系浪人という一大ネットワークが、江戸幕府成立直後も、薩長土肥という南国の外様大名を中心に、漫然と生き延びていたものが、明治維新という契機を得て、国内統一勢力に返り咲いたと見ることが出来ます。

 そして島原の乱も、彼らが結束を確かめるために、百姓一揆を足がかりにして起こしたイベントと見ることも出来ます。

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2015年8月17日 (月)

陰謀史観で振り返る、日本の朝鮮侵略 071

 皆さん、明治維新そして朝鮮侵略を唱えた「維新の志士」と呼ばれる下級武士達の、余りの活躍振りを見て、不審に思ったことはないでしょうか?

 皆さんもご存じの通り、彼らは一見すると離れた地域出身の、しかも下級武士達でした。

 薩長土肥と呼ばれますが、内実は大河ドラマ「花の乱」でも扱われている通り、彼らは藩内でもむしろ反体制派で、藩内でも強い抑圧を受けてきたにも関わらず、藩内の体制派を逆にやり込めて、倒幕を成し遂げるだけの膨大な戦力を手に入れました。

 その経緯自体が怪しい、と言えないでしょうか?

 そして彼らの内、主要なメンバーが揃って撮影されたと言われる写真が、フルベッキ写真です。

Verbeck_picture

 その後の結束力を見ても、彼らが明治維新以前からネットワークを持ち、幕府に気付かれない様に密かに秘密結社めいたものを結成していた、その可能性は本当に皆無でしょうか?

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2015年1月 5日 (月)

陰謀史観で振り返る、日本の朝鮮侵略 070

 昨日の続きで、韓国が現在も「恨」を唱えることについて、本当にしつこいのは韓国なのか日本なのか、という検証です。

 私は、こちらの政権が性根を入れ替えて見せれば、朝鮮民族が日本の不当軍事介入後に、和解に応じてもらえてきた経緯を見るに、むしろ執拗なのは、明治期の朝鮮侵略のプライドにこだわる日本だと考えています。

 しかしながら、その反証として、韓国が豊臣秀吉の朝鮮出兵に関する展示を行い、その残虐性に今なお抗議している、という事実を挙げてくる方もいらっしゃるでしょう。

 ですがこれについても、私達日本人が今までそう信じていたのとは逆に、むしろ日本の方が執拗であるが故に、豊臣秀吉の悪がしこりとなって残っている恐れがあります。

 というのは、明治政府が朝鮮侵略を挙行するに当たり、李氏朝鮮への嫌がらせとして、豊臣秀吉の「功績」を蒸し返した形跡があるからです。

 よく言われるのは、明治時代以降、日本政府の紋章と成った桐紋は、豊臣家の家紋を元にしているという説で、しかも明治政府の中核を担った薩摩藩と長州藩は、関ヶ原の戦いでも西軍に属し、朝鮮出兵にも積極的で、共に江戸幕府からは冷遇されていました。

 つまり明治政府は、それが豊臣秀吉の敵討ちであることを暗に匂わせながら、朝鮮侵略を行ったのです。

 要は、本当に豊臣秀吉の悪行を、「功績」として先に蒸し返したのは、実は日本の方だった、という事実を踏まえた上で、日本と韓国のどちらが本当に執拗か、という疑問については、日本の方だと結論せざるを得ません。

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2015年1月 4日 (日)

陰謀史観で振り返る、日本の朝鮮侵略 069

 ところで、現在の日韓関係について、戦後70年経った現在も、韓国が「恨」を唱えることについて、韓国がしつこいという説を、一部の右翼的な方は唱えていらっしゃいますが、果たして本当にそうだろうか、という歴史的な疑問があります。

 というのは、遡ること天智天皇&中臣鎌足コンビの政権奪取と、それに対抗した天武天皇&非藤原系豪族の対立の時代、天智・鎌足による白村江の戦い参入により、日本と新羅は対立しますが、天武天皇が即位するとすぐに和解し、遣日本使と遣新羅使がやりとりされる蜜月外交が始まります。

 続く織豊政権から江戸幕府への転換期も、豊臣秀吉の朝鮮出兵により、日本と李氏朝鮮は軍事対立に突入しますが、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し、実権を握ると、李氏朝鮮との国交正常化に成功します。

 つまり、日本が朝鮮半島への不正軍事介入した後も、日本人、特に日本の政権が、本気で性根を入れ替えれば、朝鮮民族は日本を許さない訳ではない、と言えます。

 ということは、実質的には長州藩の独裁政権だった明治新政府、そしてその直系として明治新政府の朝鮮侵略を正当化するため、当時の性根を入れ替えようとせずに固執する現在の日本政権こそ、本当に執拗なのではないでしょうか。

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2014年11月27日 (木)

陰謀史観で振り返る、日本の朝鮮侵略 068

 私はここで、日本の朝鮮侵略に影響を及ぼした書籍の一つと呼ばれる「水戸学」が、あくまで武家の潜在的な敵対勢力としての「南朝」の心情分析であり、それが幕末に曲解された、という説を取っています。

 そして徳川家康が、腹心の井伊直政に、石田三成の旧領であった彦根を与えた理由は、石田三成の背後に南朝の存在があり、それが豊臣秀吉を朝鮮出兵に駆り立てた可能性を、調査させる為だったと言えます。

 そしてそれと呼応する様に、井伊家が徳川家の肝いりで、不可解な人事を行っています。

 井伊家が徳川氏に仕える直前、ちょうど織田信長が猛威を振るっていた頃、井伊家は今川の配下でしたが、武田との同盟を重視する今川氏に嫌疑を掛けられて冷遇され、井伊家直流の男性達や、多くの家臣達を失い、井伊直虎公は今川氏真によって改易され、さらに領土回復後には、武田信玄の猛攻によって、井伊谷は壊滅します。

 これら一連の受難の後、井伊直虎公は井伊直政公を、徳川家康公に仕官させ、直政公は家康公の警備をはじめ、合戦や政治でも手腕を発揮し、関ヶ原では「井伊の赤鬼」として、精鋭大部隊を率いる侍大将となりました。

 そして井伊直虎公の改易に際し、直虎公と共に今川に抵抗したのが、「井伊谷三人衆」と呼ばれる土豪で、後に直政公の下で活躍しました。

 しかしながらその一人、鈴木重時の息子、鈴木重好は、水戸家の家老としてヘッドハンティングされました。

 しかもその当初は、高齢による引退であるとか、彦根城築城での粗相による解雇などの理由が挙げられるなど、いささか乱暴な理由が述べられたとう説がある割には、むしろ禄高も高い水戸家への栄転と言える転勤となり、正直現代人が考える、シルバーのお仕事や天下りとは、明らかに一線を画したヘッドハンティングでした。

 それだけ重大な人事異動だった割に、徳川家と井伊家が口裏を合わせて、大した人事ではないような説が伝わったのは、もしかしたら鈴木重好が、密命を帯びていたからではないでしょうか。

 そして転属先が水戸藩の老中、ということは、井伊家が行った石田三成の調査結果を、水戸藩に届ける為に転属した、と見ることが可能です。

 そしてそれによって成立した「水戸学」が、南朝の心情を精査に分析したものであった、ということは、少なくとも石田三成の背後に南朝があり、それ故に石田三成が、南朝の存在感を示すために、豊臣秀吉に朝鮮出兵を唆した、と見て間違いないでしょう。

 あるいは、豊臣秀頼が、淀君と石田三成がなした不義の子、という説もありますが、もしかしたら石田三成自身が南朝の皇子で、秀頼には南朝皇子の資格があった、というオチかも知れません。

 そして豊臣秀吉が、南朝皇子の建前上の父親となったという認識が、どこかであったからこそ、征夷大将軍ではなく関白に任ぜられた、と見られるのではないでしょうか。

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2014年11月26日 (水)

陰謀史観で振り返る、日本の朝鮮侵略 067

 日本の朝鮮侵略と言えば、それに影響を及ぼした書籍の一つとして、水戸藩が編纂した「水戸学」が挙げられ、そのため一部では、徳川家康が南朝天皇に天下を譲位する、という説も上がっていました。

 しかしながら、この説には疑問があり、私はむしろ、武家政権にとって潜在的な国内の敵対勢力である南朝の、心理分析を試みたと考えています。

 徳川幕府は基本的に、大名達の合意によって成立した部分が大きく、そして大名は元々、藤原氏の支配が弱まったのに乗じて台頭した、地方の独立武装勢力です。

 しかも北朝を指示した今川氏は、徳川と同じ(と徳川が詐称しているという疑惑もある)源氏の流れを汲んでおり、徳川家康も北朝皇室との関係を重視しています。

 ですので、大名達だって、南朝を今更蒸し返されたところで、訳が分からなかったでしょうし、徳川家康自身がむしろ、疑問に思っていたはずです。

 そして家康がそんな時になって、南朝を気にしだした契機は、豊臣秀吉の朝鮮出兵だったのかもしれません。

 はじめに、徳川幕府が李氏朝鮮と国交正常化するに当たり、豊臣秀吉が何故、朝鮮出兵を行ったか、その背景を調査した可能性が高いでしょう。

 朝鮮出兵は、豊臣配下の大名達を疲弊させ、何の収穫もないままの撤兵という、日本の惨敗に終わり、褒賞も当然与えられなかったことから、石田三成が大名達の恨みを買い、豊臣家滅亡の原因と成りました。

 つまり徳川家康から見れば、何が豊臣秀吉を自滅的戦争に駆り立てたのか、気になっていたはずです。

 そして関ヶ原の合戦後、徳川家康は腹心の井伊直政を、彦根に配属しますが、それも石田三成が朝鮮出兵を唆した可能性を考え、石田三成の背後を調査させる目的もあったかもしれません。

 そしてたどり着いた結論は、南朝が自身の存在感を示すだけの目的で、大名を使い捨てにする様な朝鮮出兵を、豊臣秀吉に示唆したという可能性だったのではないでしょうか。

 ですので、徳川家康が南朝に譲位するために「水戸学」を編纂したという仮説には、矛盾がある様に思え、むしろ李氏朝鮮に恨みをぶつける為に大名を使い捨てにし、その犠牲からも利権を得ようととする、日本の武家にとっても潜在的な敵対勢力として、南朝を捉えていたのではないか、と考えられます。

 であるからこそ、今川家や吉良家などの主要な足利氏の分家が、大名としての地位こそ失ったものの、旗本として存続することを許され、そして徳川幕府が北朝皇室を尊重し、李氏朝鮮と国交正常化するという、後の明治政府と真逆の政策を重視したと言えます。

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2014年11月14日 (金)

陰謀史観で振り返る、日本の朝鮮侵略 066

 私が今回、この検証をしていて、不可思議に感じたのは、私自身で「南朝系藤原氏」の嫌疑を指摘するに辺り、何故そんな時になって天智・鎌足だったのか、という疑念であり、そしてそれが理解できないからこそ、殆どの方は世界陰謀を妄想めいたものと考えるでしょう。

 特に明治維新の場合、大名の中でも薩長土肥という、南朝というよりはむしろ、豊臣方の大名が、南朝正当論を主張する明治政府の中核となりました。

 一方で、実際の南北朝の乱では、後に徳川家の重臣となる井伊家など多くの大名が、南朝方で参戦しながら、北朝朝廷との関係を重視する徳川方につき、太平の時代維持に貢献しました。

 ですので、南朝方の大名と言っても、織豊政権や明治維新時に、積極的に南朝系藤原氏の陰謀に荷担したのは、ごく一部だったと考えられ、大半は北朝系藤原氏と同様に、出し抜かれ置いて行かれたようでした。

 逆に、応仁の乱を誘発した日野氏や、八代将軍徳川吉宗に圧力を掛け、薩摩藩への重圧を止めさせた藤原氏などは、結果的に北朝朝廷の守護者を攻撃しており、むしろ隠れ南朝派と見なした方が良いかもしれません。

 また、それより時を遡れば、孝謙天皇に背いた藤原仲麻呂(恵美押勝)は、新羅への宣戦布告を唱えながら、その過激さが他の藤原氏にさえも嫌われ、反逆罪を受けて朝廷軍と交戦し、戦死しましたが、彼の論調はむしろ、後の豊臣秀吉や、明治政府に近いと言えるでしょう。

 つまり、一口に藤原氏や北朝・南朝と言っても、内紛や裏切りも多く(それすら猿芝居、という危険性も残りますが)、出し抜く者と出し抜かれる者が、その内部ですら交錯しているようにも見えます。

 特に、恵美押勝と、彼を退けて道鏡(物部の末裔)に譲位しようとした孝謙天皇の、双方を退けた藤原氏が、天智の系統である桓武天皇を据えた以降は、国内での非藤原系豪族や庶民への専横を強化する一方で、外交には殆ど無頓着でした。

 ですので、新羅への復讐という、豊臣秀吉や明治政府を操った命題は、数百年の間、藤原氏の中でさえ、忘れられていたようです。

 となると、李氏朝鮮を新羅に見立てて復讐を遂げようという、新南朝派の熱意が高まった契機は、

 1.南北朝の乱で勝者となった北朝が、旧非藤原系豪族の

   流れを汲む独立系武装勢力(後の大名)の意見を取り

   入れた為、南朝の残党が結束を固めるための対立軸と

   して、天智・鎌足の敵討ちを唱えた。

 2.織豊政権時の海外交流により、南朝系藤原氏が宗家で

   ある世界陰謀高家との連絡を回復し、かつての百済を

   再興する野心が高まった。

 この2点が中心だった、と考えられます。

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